絶望の中で、人は何を支えに生きるのか。
ヴィクトール・E・フランクルは、著書『夜と霧』の中で、
強制収容所という極限の状況において、
希望の在りかを「外の出来事」ではなく「内なるよりどころ」と語った。
その「よりどころ」は、人間の尊厳そのもの。
誰かを想い、祈るように生きる力。
そこに、折れない心のかたちが宿る。
センテンスモネが描こうとしている「祈りのような感性」もまた、
この内的な強さを言葉で可視化していくのがテーマです。
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』。
強制収容所という極限の環境の中で、人間がどう希望を見いだし、どう心を保って生き抜いたのか。
その、生き延びるかどうかを分けるのは、体の強さではなく、「心のよりどころ」があるかどうかだった。
彼は言う。
「外の世界(外的状況・目の前の現実)に希望を託した人は、希望が崩れた瞬間に心も崩れる。
けれど、感受性が強く、繊細で内面的に深まる人は、絶望の底でもなぜかそれほど壊れなかった。」
こんな例がある。
収容所内である人が、「3月30日に戦争が終わって解放される」という夢をみて、それを正夢だと信じて毎日を過ごしていた。ところが、前日になっても全然状況が変わらない。その彼は、29日に突然高熱を出して倒れ、重篤な状態におちいり、31日に亡くなった。
つまり、外的状況に期待し、その状況がかなわなかった際に息が絶えてしまった。
もうひとつ例を。
クリスマスには家に帰れる、という希望が収容所内で広がり、みんな待ち望んでいた。
しかし、クリスマスが近づいてもそのような知らせは一切なく、被収容者たちは失望にうちひしがれた。それは、かつてないほどの大量の死者を出した原因となり、記録に残っているという。(医師の見解では、過酷な労働や食糧事情、伝染病が原因とは考えにくいと)
これらの例からわかるように、生きる目的を見出せず、がんばり抜く意味を見失った人たちは、よりどころを失ってあっという間に崩れていった。
一方で、筆者フランクルの内的状況の例がある。
自分が収容所で辛かったとき、ふと妻のことを思い出した。
愛する人のまなざしや面影を呼び起こし、語り合い、満たされることができた。
そうすることで、いまある目の前の現実からの距離を置くことができた。
まさに、自分の内側によりどころを確保し、彼は生き延びたのだ。
この本を読んでいると「よりどころ」とは、
「いま、ここで生きる理由を見つめ直す場」だと思えてくる。
誰かを思い出すこと、見えない何かに語りかけること、
そこに、自分を支える祈りのような関係が生まれ、心をつなぎとめていく。
センテンスモネで届けたい「祈りのような感触を文脈で可視化する」というテーマも、
まさにこの思想と響き合っている。
それは、強さではなく、宗教的な意味でもなく、静けさの中にある回復の力。
人が人として生きるうえでの、根っこを見つめ直す行為。
日常のなかで、心が折れそうなとき、
自分を保たせてくれる何かとのつながりを取り戻すこと。
「どう生きるか」という問いは、一度きりで終わるものではない。
その都度、立ち止まり、また歩き出すために、私たちは言葉を必要とする。
『夜と霧』が示してくれたのは、
人間が極限の中でも、意味を紡ぎ直せる存在であるということ。
それは、センテンスモネがこれから社会の中で目指す方向と、深いところでひとつにつながっている気がする。
たとえ外界が大きく揺れても、
自分の心の深くには、動かない静けさがある。
喧騒や評価ではなく、誰かや何かとのつながりを感じながら、いまの自分を支える「よりどころ」を確かめる。
そこに戻ることができれば、
私たちはもう一度、光の方へ向かって歩き出せると思う。
ここでの「祈り」とは、希望ではなく、
「それでもなお、生きていこう」
という意志そのもの。
この静かな意志を言葉にしていくことが、
私がセンテンスモネで続けていきたい「書く意味」なのだと思う。
書くことも、生きることも、
自分の内側の「きわ」をたどることと、とても近いと感じる。


