誰にも言えなかったことや、
言葉にならずに胸に残っていた想いが、
すっと軽くなる瞬間がある。
自分の感性と出会う、そんなとき。
それは、誰かと別れたあとだったり、
公園を横切る帰り道だったり。
その日も歩きながら、なんとなくそういう感覚があった。
さっきまで耳に入ってきていた街の音が遠のいて、時間がやわらかく肌に当たる。
心の湖
心の中には湖がある。
透明に深くへひろがっていて
その水面は、静かに自分を整えてくれる。
森を歩いているようでもあり、
水辺に立っているようでもあるそこは、
風が通り抜けるたびに、心の重さをいっしょにどこかへ運んでいってくれる。
その湖には、ひとつの影がある。
姿形ははっきりしない。
けれど、まなざしの存在がいつもそこにある。
必要とするときにだけ、姿を現す。
導きも触れもせず、
ただ私を見つめ返してくる。
そのまなざしに包まれると、
胸の奥で眠っていた感情や記憶が、ゆっくりと目を覚ましていく。
淡く蒼い鹿の影
まだ、風が言葉を持たなかったころ。
湖の水面は空とひとつになり、
世界は、ひといきに深く沈んでゆく“間(ま)”をたたえていた。
そのとき、水脈の奥に、ひとつのまなざしが生まれる。
すべての音がかすんでいく静寂の中で、
それは、秘めやかに息づいていた。
水脈の奥から生まれたその存在は、いつからか私の中で蒼い鹿の形を借り、湖とひとつながりのまま、たたずむようになった。
祈りのようなまなざしを持つその鹿は、
湖面をわずかに揺らし、
ただ、静かにその場を満たしていく。
私の意識がその鹿へ向くたびに、湖はひっそりと深さを増し、
底で眠っていた何かが、ゆったりと動き始める。
今宵も、淡く蒼い影は、湖のほとりのどこかに。
誰にも定義されることなく、
静かに在り続けている。
湖に眠る記憶
夜の湖畔。
風はなく、水面は鏡のように月を映している。
足もとの草がかすかに揺れた気がして、振り向く。
そこに、ひとつ、蒼い鹿の影。
音もなく、そこに在る。
その瞳が、湖の水面のようにこちらを映している。
世界がゆっくりと静まる。
なにも隠さず、
逃げもせず、
その静けさが、私の心を澄ませていく。
本当は、知っていたのかもしれない。
誰かに答えを求めるのではなく、
ただ、自分の心を見つめることが必要だったのだ、と。
淡く蒼い鹿の形をした影。
その存在を感じていると、
自分でも気づいていなかった「私の記憶」と「私の感情」が、湖の奥から浮かび上がってくる。
心の湖の底には、いくつもの記憶が眠っている。
無理に掘り起こされることなく、静かに守られたままで。
「今」と「いつか」の呼吸
心の湖は、「今」と「いつか」が交わる場所。
忘れたくないものが、静かに呼吸している。
声に出さなくても、
「きっと大丈夫」
そう思える安心感がある。
そこは、私の心の中にある。
いつでも戻ることができる。
そして、また歩き出すことができる。
【序章】月と風の交点
その心の湖を歩いていると、
水面の色がゆっくりと変わっていくのがわかった。
藍色と銀色が、交互にひるがえる光の境目に、蒼の鹿は立っていた。
小鹿ほどの大きさで、
夜露をまとった毛並みが、夜空の光を拾う。
瞳の奥には湖のゆらぎが映り、
その奥で、見覚えのある何かが
ゆっくりと遠ざかっていくように見える。
蒼い鹿は何も言わない。
ただこちらを見つめ、ひとつ、まばたきをした。
すると、湖の色が再び変わり、
気づけば、鹿の姿はもうなかった。
残されたのは、水面に漂う月の光のゆらぎだけだった。
あとになって思う。
あの夜を境に、私の中で静かに終わったものと、
静かに始まったものがあったのだ、と。

