誰にも言えなかったことや、
言葉にならずに胸に残っていた想いが、
すっと軽くなる瞬間がある。
自分の感性と出会う、そんなとき。
それは、誰かと別れたあとだったり、
公園を横切る帰り道だったり。
その日も歩きながら、なんとなくそういう感覚があった。
さっきまで耳に入ってきていた街の音が遠のいて、時間がやわらかく肌に当たる。
ツキヲトという名前
すると、不意に心の中に言葉が浮かんだ。
「ツキヲト」
なぜか、それが感覚の名前のように思えて、
私の今の感覚を言い当てている気がした。
ツキヲトには、実際に訪れることはできないけれど、
心のどこかにあって、必要なときにふっと現れてくる。
心の湖
ツキヲトの中には、湖のようなものがある。
心の奥にひろがっていて、
その水面は、静かに自分を整えてくれる。
森を歩いているようでもあり、
水辺に立っているようでもあるそこは、
風が通り抜けるたびに、心の重さを一緒にどこかへ運んでいってくれる。
そんなツキヲトには、「ミヴ」と呼ばれる存在がいる。
湖が心なら、ミヴはそれを見守る影のよう。
必要とするときにだけ、姿を現す。
ミヴの物語
まだ、風が言葉を持たなかったころ。
湖の水面は空とひとつになり、
世界は、ひといきに深く沈んでゆく“間(ま)”をたたえていた。
そのとき、水脈の奥に、ひとつのまなざしが生まれる。
すべての音がかすんでいく静寂の中で、
それは、秘めやかに息づいていた。
水脈の奥から生まれたその存在は、いつからか私の中で鹿のかたちを借り、
湖とひとつながりのまま、たたずむようになった。
気づけば、私は「ミヴ」と呼んでいた。
ミヴ。
祈りのような澄んだまなざしが、その響きに宿っている。
ミヴは、湖面をわずかにゆらし、
導きも触れもせず、
ただ、まなざしとともに静かに場を満たしていく。
名前が呼ばれるたび、湖はひそかに深さを増し、
底で眠っていた何かが、ゆったりと目をひらく。
今宵もミヴは、湖のほとりのどこかに。
誰にも定義されることなく、
静かに在り続けている。
湖に眠る記憶
夜の湖畔。
風はなく、水面は鏡のように月を映している。
足元の草がかすかに揺れた気がして、振り向く。
そこに、ひとつの影があった。
音もなく佇んでいる。
「ミヴ」
声に出した瞬間、世界がゆっくりと静まる。
ミヴは、ただそこにいる。
その瞳が、湖の水面のようにこちらを映している。
何も隠さず。
逃げもせず、
その静けさが、私の心を澄ませていく。
本当は、知っていたのかもしれない。
誰かに答えを求めるのではなく、
ただ自分の心を見つめることが必要だったのだ、と。
ミヴ。
小さく呼んでみる。
ミヴは、ただそこにいる。
けれど、そのまなざしを感じていると、
自分でも気づいていなかった「私の記憶」と「私の感情」が、
湖の奥から浮かび上がってくる。
ツキヲトの湖の底には、いくつもの記憶が眠っている。
無理に掘り起こされることなく、静かに守られたままで。
「今」と「いつか」の呼吸
心の湖は、「今」と「いつか」が交わる場所。
忘れたくないものが、静かに呼吸している。
声に出さなくても、
「きっと大丈夫」
そう思える安心がある。
ツキヲトは、そんなふうに私の中に在る。
【序章】月と風の交点
その心の湖を歩いていると、
水面の色がゆっくりと変わっていくのがわかった。
藍色と銀色が、交互にひるがえる光の境目に、ミヴは立っていた。
小鹿ほどの大きさで、
夜露をまとった毛並みが、夜空の光を拾う。
瞳の奥には湖のゆらぎが映り、
その奥で、見覚えのある何かが
ゆっくりと遠ざかっていくように見える。
ミヴは何も言わない。
ただこちらを見つめ、ひとつ、まばたきをした。
すると、湖の色が再び変わり、
気づけば、ミヴの姿はもうなかった。
残されたのは、水面に漂う月の光のゆらぎだけだった。
あとになって思う。
あの夜を境に、私の中で静かに終わったものと、
静かに始まったものがあったのだ、と。