海を前に、呼吸がととのう

海へ歩いた。
砂を踏むたびに足もとが沈み、少し強めの潮風が耳をおおう。

海に近づき、波を前にしたとき、ふと一冊の記憶が浮かぶ。
海と同じように、深くて静かな問いを宿す本。

リンドバーグ夫人の『海からの贈物』だ。

彼女はこう記す。

質ではなくて量が、静寂ではなくて速度が、沈黙ではなくて騒音が、考えではなくて言葉が、そして美しさではなくて所有欲が、価値の基準になるのである。
私はこれにどうすれば抵抗することができるだろうか。どうすれば、人間を幾つにも分割する圧力に対して自分を守れるだろうか。

いまを生きる私たちにも、突きつけられる問い。

けれど海辺に立てば、速さも所有も消えて、ただ寄せ返す波音が残るだけだ。
その確かさに、人はどこか救われるのかも。

もうひとつ、心に残る一節がある。

人生に対する感覚を鈍らせないために、なるべく質素に生活すること
体と、知性と、精神の生活の間に平衡を保つこと
無理をせずに仕事をすること
意味と美しさに必要な空間を設けること

注)読みやすさを優先し、意図的に書籍とは異なった改行にしています

いま私の目の前も、空はどこまでも高く、海は絶え間なく揺れ、雲の影がゆっくりと流れていく。
その景色を見ていると、自分の小さなこだわりは驚くほど小さくなり、むしろ自分という軸は、静かに研ぎ澄まされていくようだった。

強くあることは、硬くあることではない。
しなやかに受けとめながら歩いていくこと。
その姿勢が、静かな強さへとつながっていく。

そう感じた。

あの日、海辺で過ごしたひとときは、形のない贈り物。
ページをめくるように、波が運んできては消えていく感覚は、今もわたしの深くで静かに残っている。