感性を言葉に。いまの自分だけが書ける文脈を

宮崎駿の出発点

日常の中に創作欲や表現したい欲求があると、その気持ちに引っ張られるように行動力が増していき、気分も上向きになります。

何か書きたい
何かを形にしたい
自分の「好き」をもっと見てもらいたい
やさしい時間を増やしたい
もっと知識を得たい

など。

これらが自身の内側から力を生み出し、自分を高みへ運んでいくのだと思います。

さらにそんな感覚を言葉にすることで、より自分の中がクリアに見えてきます。

仕事・プライベート問わず文章を書くとき、いつも近くに置いている本があります。
宮崎駿氏の『出発点』です。

この本は、読むたびに新しいアイデアを与えてくれる私のバイブルです。
体のなかで言語化できずにくすぶっている「感覚」を、宮崎駿氏は見事に代弁してくれます。

たとえば、こんな一節。

人が美しい夕焼けについて語るとき、急いで夕焼けの写真集をひっくり返したり、夕焼けを探しに出かけるだろうか。
そうじゃない、記憶も定かでないとき、母の背で見た夕焼けの、意識のひだに深く刻まれた情感や、生まれてはじめて、“景色”というものに心を奪われる経験をした夕焼けの景色、さみしさや、悩みや、心あたたまる想いにつつまれた、たくさんの夕焼けの中から、君は自分の夕焼けについて語るはずなのだ。

『出発点』宮崎駿

私たちは、思い出や経験・生きてきた環境の中に、あらゆる感覚を詰め込んでストックしています。
それらは一度は色彩を失い、忘れてしまうこともあるけれど、あるとき突然ふわっと過去の色を思い出し、再び自身の中でよみがえらせます。

この感覚が、考えごとの先でアイデアを実らせたり、問題解決へのヒントとなったりするのです。

人って、種を蒔きながら歩いているのだと思います。
種の中には、自分でも気づかない心の機微の素(もと)が秘められている。

同時に、過去に蒔いた種の収穫もしていて。
そこから後悔や反省をしたり、失敗の回収をしたり、成功体験を獲得しながら歩いている。

自分で種を蒔いては、未来の自分が収穫し、また種を蒔いては・・・、と生まれてからずっと「自分」とつながりながら、循環しているのだと思います。

(感受性を自給自足しているような)

そうやって、自分の中で長い時間をかけて、心の機微を蓄えているのかもしれません。

言葉や感性は、年齢とともに経験の深さや感覚の温度によって変化しています。
若くても、年齢を重ねても、その時々で「今だから書ける文脈」があるのです。

小さい頃に見た夕空に、いま見えている夕空の色を重ねる。
そして数年後、その時の自分が見えている空の色をさらに重ねていく。

こうやって時間の層を積もらせ、
瞼の裏に夕焼けの色が重ねられていくように、心がとらえる文脈も深みを増していくのです。

淡々と過ごしているような毎日も、「今この時」の感性は自分の中で、静かに深々と積もり続けています。