心の奥には、湖がある。
その湖には、言葉にならない気持ちや感情が、静かに眠っている。
私は、その湖のほとりに立つ自分を思い描く。
手にしているのは、三冊の古いレシピノート。
母が書き残したものだ。
ページをめくると、えんぴつで書いた文字が並んでいる。
「バターは焦がさない」
「混ぜすぎない」
「粉 ふるう」
手書きの文字ひとつひとつに、若かった母の息づかいが感じられるようだ。
その文字を追うと、子どもの頃の記憶がよみがえる。
オーブンの前に立つ母の横顔。
部屋いっぱいに広がる甘い香り。
母といっしょにこねた粉の感触や、生地を手に持ったときの会話までもが記憶の奥に戻ってくる。
湖をのぞくと、そこに映るのは飾らないままの自分。
言葉にできなかったさっきまでの不安や迷いも、水面はただ映し出している。
静けさの中に、ただ、揺れている。
ノートを抱きしめると、私の中に小さな風が生まれた。
霧がすこしだけ動く。
それは、私の奥に長くとどまっていた何かが、空気に溶けていくようだった。
このレシピは、ただの料理のメモではない。
母の声と手のぬくもりとともに、祈りのように私に託されたものだ。
私はこのノートを手にしながら、また一歩を踏み出せるような気がしている。
胸の奥の湖はそっと揺れ、月の光がたゆたう。
そして、夜は、今日も静かに続いていく。