Hello – 私とセンテンスモネ –

ペリカンスーべレーンとニーモシネ

こんにちは。
『センテンス モネ』のmayuです。

これまでの歩みを見つめ直しながら、自然体で自分らしい生き方を目指す場として、『センテンス モネ』を立ち上げました。

ここ数年、私自身にも大きな変化が訪れました。

他人の評価や期待に沿うことが平和だと思い込んでいましたが、ようやく自分の声に耳を傾け始めたのです。
本当に大切なのは、他人の基準ではなく、自分の心がよろこぶ生き方だと気づきました。

これまでずっと置き去りにしてきた自分の声を、少しずつ拾い上げていく日々が今、始まっています。

人生をかけた壮大な夢を持つこともすばらしいけれど、「手を伸ばせば、温度を感じることができる」
そんな少し先の距離にある幸せを追いかけていく暮らしも、悪くありません。

まずは自分の指先を目で追う、
足元の花を確かめる、
そこから始めてみるのもいいかも、という考えを軸に文脈をつづっています。

センテンス モネを通じて、どんな視点を大切にしていきたいのか。
センテンス モネの読者さんに、何を届けたいのか。

私mayuの想いを書かせてください。

少し長いですが、お時間のある時に少しずつ読み進めていただけたらと思います。

“ 自分の本心を抑えてのトラブル回避 ”ではなく、「自分にとっての重心がどこか」をもっと知るべき

私は、文章にたずさわる仕事をしています。

書く仕事をしている以上、オファーがあればクライアントの要望に応えることに自分の時間のすべてをかけて全集中する、それが正しい働き方だと思っていました。

多様なスタイルの文脈を経験し、書ける文章の幅を広げ、執筆業としての深みを増し、すべてが自身の経験値に結びつけることができると信じてたのです。

一生懸命に何かに取り組むのは、とても気持ちのいいものです。
達成感も生じ、喜んでくれる人の顔を見ると、自分も誰かの役に立てているという自尊心にもつながります。

だから、常識の範囲内であればどんな仕事でも受け入れ、家庭や自分のプライベートの時間が多少減っても、それは仕方ないことだと納得していました。

納得しているつもり・・・でした。

しかし、それは私の望む人生とは違うことに気づきました。

一生懸命は誰のため?何のため?

クライアントの理不尽な要望や矛盾(締め切り間際の文字数変更や内容変更など)にも、応じていました。
揉めごとになるのが嫌で、自分が折れれば平和に済むと考えていたからです。

けれどそれは、自己を犠牲にして作り出した「ニセの納得」。

当然、そんな自己犠牲を維持し続けられるはずがありません。

結果として、周囲に気を使うことに疲れてしまい、自分のことや、自分の大切な家族や友人を犠牲にしてしまっている現実を突きつけられます。

命を守るエピペン(2012撮影)

ある日、当時幼稚園児だった息子が私のすぐ隣でアレルギー発作を引き起こしました。
息子は重度の食物アレルギーがあります。

ダイニングテーブルでライティングに集中していた私は、息子がなにか語りかけてきたのを軽く聞き流してしまいました。
その時の息子の私への語りかけは「これ食べていい?」だったのです。

日常、息子が口にしてはいけないものは、家の中には一切おいていません。
けれど、その時にかぎって娘が学校で残してきた給食のパンが、机の上に置いてあったのでした。

私のすぐ横で、息子の叫び声。
その直後、彼の喉の内側が一瞬で腫れあがってしまい呼吸困難に。

すぐ横に私がいたのに、
こんなことにならないように在宅スタイルで働いていたのに、
なんで、なんで、なんで。

私は、いちライターである前に、息子にとって唯一の母親であるべきでした。
また、それを私自身が一番望んでいたことでした。

それなのに。

私の抱えたニセモノの納得は、自分の大切なものを守るどころか迷惑や不幸を呼び寄せてしまうのだ、と気づいたのでした。

書き手としても読み手としても情報過多に翻弄される

葛藤が渦巻く中で(2014撮影)

その出来事がきっかけで、私は仕事の本数を減らしていきました。

単発の仕事ではなく、年間契約や長期プランニングに関わる仕事を選ぶようにしました。
書く内容を集約することで、ライティング時間の自由度が増すと考えたからです。

けれど現実は違いました。

依頼案件を絞りつつ収入を安定させることは、より専門性の高いものの執筆を受注することを意味します。

特に神経質になるのは、人生にかかわる大きな問題を扱うものです。
心理的に重圧も大きくキツイものがあります。
「私が書いていいのだろうか」
そう思う分野もありました。

必要以上にナーバスになるのには、理由がありました。
私には過去の体験で忘れられない、こんなエピソードがあります。

夜中の頭痛、手探りで探した「正しさ」

上の子を妊娠中、まだ不安定な初期のことです。

真夜中に耐えられない頭痛が襲ってきて、頭痛薬を飲んでいいのかパソコンで検索したことがありました。
夫は出張中でいません。
病院に電話したけれど、通話中でつながらない。

頭が痛くて痛くて割れそうです。

そんなとき「妊婦 頭痛薬」とWEBで調べました。

目も開けないほどの頭痛がひどい中、目を細めまぶしい画面でやっと検索し、頭痛薬を飲んで良いか調べました。

一番上に出てきたサイトを開き、そこにあった情報は「妊婦でも頭痛薬はだいじょうぶ」とのことでした。
上から二番目にあるサイトには「鎮痛剤は飲んではいけない」と書いてありました。
それ以降のサイトをみても、妊婦の頭痛薬についての判断はバラバラでした。

中には医師監修以外の、普通のまとめサイトのような記事も混在していました。
私は何を信じたら良いのか判断できなかったため、すぐに頭痛薬に手を伸ばさず、念のためもう一度だけ病院へ電話してみて、つながらなかったら薬を飲もうと思いました。

すると、ずっとつながらなかった電話が今度はつながりました。
電話口の看護師さんに事情を話すと、看護師さんは「できるだけ飲まずにいてください」と言いました。

その瞬間、「飲まなくてよかった」そう安堵したのでした。
(その夜は地獄のような頭痛でした。けれどわずかな安堵がその夜を支えていました。)

あの夜のことは、その後も心から離れません。
不確かさへの疑念は胸に残り続けます。

何が正しいのだろう。
正義ってどこなんだろう。

自分と自分の外との間のあらゆることに薄曇りのフィルターがかかり、先が見えなくなってしまいました。

「私が書いていいのか?」心に巣食う不安

こんな経験もあってか、人生に大きく関わる内容の案件の際、常に不安がつきまといます。

誰かが、私が依頼され書いたこの記事を頼りに行動した場合、私はその読者をだましていることになるんじゃないだろうか。
「どうにかして糸口を見つけよう」と、すがるように検索をした人が(かつての妊婦だった頃の私のように)、私の書いたものを読む場面もあるんじゃないか。
私はそこに責任をもてるだろうか。

最終的にクライアント側でのチェックが入るとはいえ、私の中のそうした疑問は決して消えることはありませんでした。

(もちろん、新しい世界を知れて学びになるような依頼もたくさんありました。ですが、一部のそうした疑念を抱く依頼が私の中で肥大して、大きくのしかかっていたのです。)

同業の友人にこの話をすると「考えすぎだよ」と言われました。
そうなのかな、仕事ってこんなもんなのかな、と無理やり自分を納得させていました。

いま目の前に与えられたものを、黙って無心でこなせばいいのだと、そう思い込むようにしました。

続けるために必要だった、あきらめと覚悟

深夜まで書いていることもしょっちゅう(2016撮影)

これほどの経験をしたにもかかわらず、私はなおも同じスタイルで仕事を続けていました。
(現実問題として、物価の上昇などの社会背景や子どもの学費など、「少しでも蓄えを」という気持ちが先行していました。)

「いざこざや問題を起こすよりはまし」と、かたくなに日々歯を食いしばります。
「余計なことを考えず、私は書くのみだ」と。

当然モヤモヤは積もるばかりです。

あの日、妊娠中に検索で抱いた疑念は残ったまま。
「私が書いていいのか」、書き手としての迷いも未解決。
こんなにも葛藤がありながら、優先順位をシフトできないでいる不甲斐ない自分。

それはまるで、アクセルを踏みながらブレーキを踏んでスピンしているよう。
景色が定まらないのです。

こんな状態が数年続きます。

耐え続けた先に待っていたもの

2020年。
それは突然やってきました。

夏の初め、自分の言葉に異変を感じました。
うまく話せなくなり、思うように文章も書けなくなり、その半月後さらに相手の言っていることがうまく理解できなくなりました。

夫に病院に連れていかれ、原因を探りながら薬をいろいろ試すも、なかなか安定した言葉がでてこない。

やがてそれは、ストレスからくる圧迫が原因だと判明しました。

はじめて見る薬ばかりだった

みなさんは、感情を失ったことがありますか?
ココロがストップする経験。

かつて私は、感情の起伏がない人っていいな、人生が楽でいいな、とそんなことを望んでいたりもしました。

私はちょっとのことで傷ついたり、心を揺るがされたり。
流れてくる暗いニュースに、自分を投影したり。
決してタフとはいえないタイプです。

予想のつかない突風みたいな情報や周囲の空気に煽られ、心のアップダウンに自分を左右され、あげくはこんなことになった。
ああ、うざい。
すべてがうざい。

そしてついに、うっとうしい存在だった感情は、薬の副作用というカタチでうすれていきます。
心が真っ平になったのです。

しかし、本来望んでいたはずの「感情のうすい世界」は思っていたものとは違いました。
何をしてもつまらなく、自分の鼓動すら実感できなくなってしまったのでした。

「生きてる気がしない。辛くも楽しくもない。悲しくも嬉しくもない。」

家族で行った王ヶ頭

ごはんを食べて「おいしい」と感じるように、
生きていくうえで、五感は心に栄養を与えています。

けれど感情がなくなると、心の味覚障害になってしまい、五感も表情もなくしてしまう。
生きる喜びをも失われてしまう。
これは本当につらいことでした

この経験から、自身への意識が大きく変わりました。

日々の小さな心の揺らぎに気持ちを寄せて、もう一度、自分の暮らしのアプローチを考え直そう。
やってくる波には、自分の納得のいくカタチで波乗りをし、誰のせいにもせず潔く生きていきたい。

そう心に刻みました。

私にとってこれは、自分自身との距離をはじめて本気で考えた出来事となりました。

思えばいままで、矛盾や理不尽が続いても、できるだけ考えないようにしていました。
すべてを滞りなく、最後までスムーズに運べることを最優先。

逃げていたのです、自分の内面を二の次にして面倒から遠ざかるように。

表面の(見える部分の)自分がどんなに一生懸命に動いていても、内面の自分が喜ぶことをおざなりにしているため、無理に両方の自分を合わせようとして疲労が重なるばかり。

そして結果的に、「助けがほしい」という自分の声にさえ気づけないほど、負担を背負ってしまっていたのです。
このことをはっきり自覚できてからは、「幸福度は自分の大切にしているものが基準となる」と確信しました。

つまり「価値観」です。

やっと空の青さが見え始めた

最近は「がんばらなくていい」「無理しなくて良い」、そんな空気が主流となりつつあります。

私は「誰よりもがんばりましょう」「最大限の努力をしましょう」で育った世代なので、現代のこの空気は心にも体にもやさしくていいな、と思ったりします。

ただ、それをはき違えてはいけないな、とも感じています。

前述したように、私は自分で自分を無視した結果の積もりに積もったストレスに埋もれ、深く考えたり感じたりすることが困難になり、言葉も不自由した体験をしました。

感情が動かず、何も感じず、目的もなく、無気力で時間を刻んでいたあの頃は本当に無機質で、記憶もほとんどまっさら。
あったはずの時間が飛んでしまっているのです。

そのため、一時期は、外側から見たらゆるゆるとした時間を過ごしているかのように見えたかもしれませんが、本人にしてみればあれほど深い「無の闇」で過ごした辛い時間はありませんでした。

ようやく動き始められる

そこで、

チャレンジやがんばることを詰め込むのではなく、
だからと言って空白の中だけで呼吸するのでもなく、

五感を感じることの価値を自分に与え、
感謝してそれを受け入れ、
考えるべきことはきちんと考え、想像し、思考を巡らせ、人間らしく生きる。

そんな時間を過ごしたい、という気持ちになりました。

私たちを焦らせるものの正体

自分のキャパシティを考える

ここで、私たちが感情を乱し、焦り、過剰に他者比較してしまう原因を考えてみます。

真っ先に思い浮かぶのはSNSです。

世の中は情報戦がすべてと言っても過言ではありません。
活発なSNSにより、多くの意見に触れるメリットがある一方、人の数だけある価値観に翻弄され、自信をなくしてしまいがちです。

それまで自分の中で不動だった価値観までも、揺らいでしまいます。

インスタグラム、Twitter、Facebook、最近ではスレッズなど、次から次へと新しいつながりの形が生まれています。
みなさんも、一度はSNS疲れというものを経験していると思いますが、SNSから離れる勇気を持つことの困難さもあります。

そんな環境の中、私たちはどう自分をコントロールしていけばいいのでしょうか。

自分を満たすものを知る

自分自身が内面に持っているものを、もっと理解し、信じてあげる。
そのために「自分を知る姿勢」を整えることから始めます。

メガネを外し、
イヤホンを外し、
マスクも外し、
素の状態で「自分の五感に頼る時間」を、定期的に確保することにしました。

以前から好きだったカメラも、もっと丁寧にシャッターを切るようにしました。

自分を知る。
これは、おそらく永遠の課題なのだと思います。

どこまで行っても、一番わからないのは自分なのかもしれません。
だからこそ、後悔があり、希望もあり、やり直しの期待もあり、わん曲や屈折が存在する・・・、
そう思ったりもします。

正解もゴールも完成もない、それゆえに自由にトライできる。

それが、自分という洞窟を探検する人生ゲームなのです。

コントローラーを握るのは常に自分。
自分のご機嫌をとり、トラブル時には自身と向き合いきちんと折り合いをつけ、納得して気分よく進んでいく。
自分の感覚を信じて生きていく。

そんな人生を歩んでいけたら最高だと思いませんか。

未完のドキュメンタリー

軽井沢・夏

『センテンスモネ』は、言葉にしにくい少しナイーブな部分を出しつつ、人生を充実した気持ちで組み上げていこう、というなんとも表現し難い抽象度の高いサイトです。

カリッとした明白な手段を示した記事は少なく、あくまでも日常の中に嬉しい楽しいを見つけ、感じていこうね、というものです。

ですので、読む人のイメージにお任せする構成をとっています。
自由に受け入れてもらうことを心がけて書いているからです。

また、いつどんなタイミングで読んでも大丈夫なサイトを目指しています。

信頼でつながれる場を、と願っています。

刺激も少なく、即効性のあるコンテンツではありませんが、ぜひ、それぞれの心の温度に調整して読んでいただけたら幸いです。

心の状態と流れ込んでくる情報のバランスが、明日の景色を変える

これまで、曲がりなりにも「書く人」として、たくさんの文章を書いてきました。

そこには、はっきりとした数値目的のものも多くありました。
集客、売上、アクセス数・・・。
競争もたくさん。
比較もたくさん。

けれど、ここ『センテンス モネ』は違います。

数値でははかれない人としての感覚や、
見落としていた当たり前に、もっと気づいていきたい。

心の温度を感じながら暮らしたい。
周囲の人たちの熱も感じたい。

情報に踊らされることなく、自分の気持ちを見つめたい。
心の方向にしたがった自分の判断に、自信を持ちたい。

心が揺れ動くことが、人生にどれだけ豊かさをもたらし、しあわせなことか・・・。

心の余白を持つことは
なんと大切なことか・・・。

何かを大切に思い、夢中になれることは
どれほどに心の空腹を満たし、体をあたためるか・・・。

私の体験と、そこから学んだ「自分の本質へ意識を向けることの重要さ・余白の大切さ」を発信したいと思いました。

いまの私の言葉で、少しずつ語っていけたらと思います。

日々の摩擦で疲れてしまった、近くの、遠くの誰かに届けられたら幸いです。

縁あってここを訪れてくださったあなたの、人生を前へ進めるインスピレーションのきかっけになれたら嬉しいです。

少し目を細めるくらいがちょうどいい

『センテンス モネ』には、あなたにピッタリと合った正解は存在しないかもしれません。

ここにあるのは、私の思考と体験から生まれた、あなたから見たら「その他大多数」のほんの微点にすぎません。

けれども、何かのヒントは落とせているのではと思います。
めまぐるしい情勢のなかで、私のような想いやもどかしさを感じている人も少なくないと感じているからです。

ぜひ、ここから拾えるヒントを探し出し、ご自身にフィットするようカスタマイズして、あなたの心の湖を護るために注入してみてください。

そして。

どこまでも透明で澄みわたる水をたたえた心の湖を持つあなたに、いつかお会いできることを楽しみにしています。

ここまで長々と(本当に長々と)読んでくださり、ありがとうございました。

どうぞよろしくお願いいたします。

mayu

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