ピアノの音のように、言葉にも、深く静かな余韻がある。
消えていくその先に、本当の響きが生まれる。
音と言葉のあいだで、静けさに耳を澄ませたくなるような、そんな時間のお話。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、
『羊と鋼の森』より、原民喜の引用
少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、
夢のように美しいが現実のように確かな文体
この一節が、体の中で静かに反響している。

『羊と鋼の森』は、主人公・外村が、ピアノの調律の世界に出会い、惹かれていく物語。
音を聴くという行為が、ただの感覚ではなく、精神の深い場所へ降りていくことなのだと、読んでいるうちに感じさせられる。
外村は、まっすぐな耳と心で音に向き合おうとしている。
目に見えない「響き」を捉えるその姿勢は、空気に耳を澄ませるように繊細でやさしい。
調律されたピアノの音が描かれた場面に、私は不思議な透明度を感じた。
整えられた音がゆっくりと空気に馴染み、やがて静かに消えていく。
その過程が、まるで水が静かに澄んでいくようで、読んでいて何度も深呼吸をしたくなる。
それは音の記憶でもあり、言葉の記憶でもある。
音が澄んでいくことと、言葉が澄んでいくことは、どこか似ているように思う。

思えば、日常の中にも、そういう音がある。
たとえば、早朝のキッチンでひとり、お湯を沸かすとき。
静かな部屋に、湯の沸く音がゆっくりと立ち上がっていく。
マグカップに注がれるときの、やわらかな音と、水面のとろりとした揺れ。
口に含んだとき、じんわりと体に広がる温度。
音や感覚は、記憶にはっきりとは残らなくても、たしかに「余韻」としてそこにある。
特別な出来事ではないけれど、
なぜか記憶の底に、やわらかい印象だけが残っていたりする。
「明るく静かに澄んで懐かしい」
原民喜の言葉のように、そうした時間や感覚には、説明できない“ひかり”のようなものがひそんでいる。

ピアノの調律が終わり、指で鍵盤をひとつ押す。
そのシーンの空間が、私の中にひろがっていく。
深く澄んだ音が静かに生まれ、空気に溶けていく。
その響きを確かめるように、耳を澄ます。
やがて、静けさの中、音がひとりでに消えていく。

『羊と鋼の森』
この小説は、言葉のかたちをしていながら、どこか音に近い。
読み終えたあとも、体の深いところで音が残る。
言葉も、音も、ただ伝えるためにあるのではなく、ゆっくりと整えられながら、ふさわしい場所に落ち着いていくものなのかもしれない。
そうやって、自分の中に沈んで、時間をかけて馴染んでいくものなのかも。
あたらしく目を向けたり、うまく言葉にできなかった気持ちに触れたり。
そういう「ちいさな気づき」をくれる文章や音に出会うと、私はなんとなく、今日という一日がやさしく整えられた気がする。
それは、なにかが劇的に変わるわけではなく、
心のなかの「微細な音」が整っていくような感覚。
自分の奥にあった感情や記憶と、静かに呼応するような響き。
明日もまた、
そんな音や言葉を探しながら、
私はわたしの一日を送っていく。
きっとそれは、言葉にならないものたちと、
ひとつずつ静かに手をつなぐような時間なのだと思う。
この文章は、以前noteに掲載した記事「余韻が残る音と言葉」をもとに、センテンスモネ用に加筆・推敲したものです。
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