筆圧のない言葉に、ひかれていく

「この言葉は、力が抜けていていいな」と思うことがある。

伝えようとする意志は感じるのに、押しつける感じがしない。
相手の呼吸に合わせて置かれたような文章。

筆圧のない言葉には、余白がある。
その余白に、読み手の感情や記憶がすっと入りこむ。
だから、読みながら自分のことを考えてしまう。

強い言葉に、疲れてしまった時期があった。

説得力のある言い回し。切れ味のいいフレーズ。
そういうものを持っていないと、「いい文章」と思ってもらえない気がしていた。

でもよく思い返してみると、
昔から私は、強い言葉に、どこかで疲れてしまう傾向があった。
考える隙間を与えられないような、勢いのある文章。
それがいけないわけではないけれど、どうやら私は、そういう空気に長く身を置くことができなかった。

「売れ売れ、レジを鳴らせ」
そんな雰囲気のPRを書かなければならなかった時期には、きまって身体をこわしていた。
合わなかったのだ。

そんな私にとって、
何度も読み返してしまう文章のほとんどが、
意外なほど筆圧のない言葉で書かれていたことに、あるとき気づいた。

きっぱりとは言い切らない。
呼びかけもしない。
ただ、すこしだけ沈黙のあとに、しっとり残るような言葉たち。

そういう文章に、私は今もひかれている。

「強く書くこと」が、必ずしも「深く届くこと」ではない

伝えたいことがあるとき、私たちはつい筆圧をかけてしまう。
誤解されたくない。伝わってほしい。響いてほしい。

でも本当に人の心に残る言葉というのは、
力で押すよりも、静かにすーっと沁みていくようなものかもしれない。

たとえば、誰かの心に残っている言葉を尋ねたとき、
それは意外なほど明快でも、力強いわけでもなかったりする。
ただそこに在った、というような言葉。
あとから思い出すと、なぜか心のどこかに沁みていた言葉。

筆圧のない言葉は、一度は読み流されてもどこかに残っている。
けれど、それでも届いていく言葉だと、私は思っている。

筆圧を抜いたとき、自分がにじみ始める

不思議なことに、筆圧を抜いて書いた文章の方が、
「あなたらしい」と言われることが多い。

頑張って伝えようとするより、
ただ感じたことを、自分のリズムで綴っているときのほうが、私という人間が、にじむように言葉のなかに現れる。

表現は、いつも声を張りあげて行うものではなくていい。
誰にも気づかれないくらいの、ささやかな強さも、
文章の中には確かに存在している。
そういう文章は、世の中にたくさんある。

声を張らずに届く言葉を、信じて書く

筆圧のない言葉は、すぐに伝わるような言葉ではないかもしれない。
誰かの記憶に強く刻まれることも、ないかもしれない。

けれど、たとえば日々の中でふと立ち止まったときに、なぜだか思い出してしまうような、そんな言葉。
私は、それが文章のもうひとつの静かなエネルギーだと思っている。

そういう「筆圧のない言葉たち」を、これからも書いていきたい。