やさしい光景が連鎖する

電車でお年寄りに席を譲っている場面を見ました。
30代くらいの女性が、少し向こうで立っていたおばあさんに声をかけ、手を差し出していました。

そのすぐ後、乗り換えでホームで電車を待っている時、向かいのホームで停車中の電車の中で、男性が女性に席を譲っている様子が見えました。

同じ日に、似たようなやさしいシーンを続けてみた私もまた、やさしい空気に包まれるようでした。

そういえば。
数年前に似たようなことを、自分のブログで記事にしたことがあったなぁ。
そんなことを思い出したので、当時の記事をこちらに記載してみます。

数年前に書いた『有楽町駅での忘れられない出来事』という記事です。

『有楽町駅での忘れられない出来事』

有楽町駅でのことです。

地上のホームへ向かうエスカレーターが混んでいて、特に急いでいるわけでもないからと階段で上へあがっているとき、私の隣で同じペースで階段をあがっていた女性(30代くらいのOLさんかな)がいました。

あと少しで上がりきるかなというとき、隣の女性が私の視野の左端から姿が消えたと思うと、こんな会話が聞こえてきました。

「持ちましょうか?」

そのOLの向こう側には、背中に子供をおぶって、左手は3〜4歳の子供と手をつなぎ、右手で赤いスーツケースを持ち上げてホームへの階段を上がる女性がいました。
子供に気を配りながら重たいスーツケースを持っているのを、そのOLは気にかけて声をかけたのです。

よくある光景。
でも、気づいてもなかなか言えない一言です。

中には大勢の人の前で気遣われると、かえって迷惑だと感じる人もいるでしょう。

わたしは以前、目の不自由な人にドアを開けたら「余計なことはしないでください」と言われたことがあります。
電車でお年寄りに席をゆずったら「頼んでいません」と言われたこともあります。

自分が親切だと思ってやったことでも、相手にとって迷惑ならお互いにマイナス感情が芽生えてしまうのです。
どちらが正しいという問題ではなく、相手の気持ちは相手のもので、相手次第。
難しいところです。
(他人の心は見えにくい。誰でも心の中は複雑なのです。)

でも。

そんなことをいちいち気にしているうちに、その瞬間(今回ならば、声をかけようと思うその状況)は過ぎ去ってしまう。
すぐに反応(行動)しなければ、手助けしたい瞬間はすぐに溶けてなくなってしまうのです。

私だってこのOLみたいに、「持ちましょうか」とたずねるくらい言ってみてもいいんじゃないか。(電車で席をゆずったっていいし、ドアを開けてもいい)
別に強引に荷物をひっぱって親切を押し売りしているわけじゃないし、相手がそれを求めなかったらそれはそれでいいんじゃないか。

(そう、私は断られるのが怖いんだ)

私の隣で「持ちましょうか?」と声をかけたOLに、子育てママは「いいです、大丈夫です」と答えていました。
あ〜やっぱりね、と思う私。

でもそのママは続けてこう言っていました。

「ありがとうございます。」

「持ちましょうか?」
「いいです、大丈夫です。ありがとうございます。」

たった一往復の会話。

この一往復の会話のなかには表面の言葉だけでなく、お互いに行って(言って)、帰ってきた気持ちが乗せられている。

ちょっと離れたところでこれを見ていた私の中では、今でもあのときの光景が何往復も行き来しています。

(ホームからの新幹線の写真も当時のものです)

地続きでつながる日常

この有楽町駅のことは今でも覚えていて、たまにふわっと思い出すこともあります。

何がここまで私の中で強く残っているのか、自分でもよくわからないのですが、あの時の空気や、上がっていく階段に頭上から降ってくる光の様子、スーツケースの傾きなど。
不思議とよく覚えているんです。

今回目にした席を譲る光景も、いつかふわっと思い出す時がくるのでしょうか。

日常の何気ない偶然のヒトコマも、実はひとつひとつ余すことなく小さなパーツとなって、私を作る要素となっているのかもしれません。

こんな今日も、自分を形成するたくさんの要素・パーツが詰め込まれた一日だったに違いありません。

そんなことを思った、やさしい3月の終わりでした。